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また悲しいお産があった [分娩]
先日、お腹の中で赤ちゃんが亡くなっている、と、
近くの医院から一人の妊婦さんが紹介されてきました。
妊娠7か月目の子宮内胎児死亡でした。
入院の時、ボクは家にいて当直の若いドクターから連絡を受けました。
「すこし時間が経っているようです。」
そのドクターが超音波などの診察の所見を説明してくれました。
あまり時間が経過すると母体にも影響が出てきます。
入院された日は、子宮口を拡げる処置をして、
次の日に陣痛を起こします。
治療方針と一般的な注意とをそのドクターに伝えました。
次の日、ボクは当直でした。
「明日はボクがいるからね。」
「わかりました。」
優秀な彼女(女性医師です)は、冷静に対応してくれることでしょう。
次の日、朝から陣痛促進剤を使い、陣痛を起こしました。
午後近くになって、陣痛が強まり、そろそろお産になりそうですと連絡がありました。
ボクは分娩室でこの方のお産に立ち会いました。
主治医であるそのドクターがお産の介助をし、ボクは分娩台の横から見守りました。
静かなお産です。
ほどなく、小さな赤ちゃんが卵膜に包まれたままで、お産になりました。
主治医の先生が卵膜をはさみで開き、赤ちゃんを見ると、
臍帯の過捻転がありました。
お腹の中で、胎児への血流が途絶えてしまったようです。
妊娠中期の子宮内胎児死亡の原因としては、
この臍帯過捻転がもっとも多いのです。
ボクは、御主人に説明し、
そして、頭を下げ、小さな赤ちゃんに手を合わせました。
「助けてあげられなくてごめんなさい。」
心の中で、赤ちゃんに話しました。
それに合わせて、御主人も、立ち会っていた若いドクターたちも、助産師も、
みんなが手を合わせてくれました。
お産を終えたお母さんも、静かに涙を流しています。
前にいた病院でも、やはり悲しいお産がありました。
そのたびごとに、
ボクはこうやって、手を合わせていました。
そして、前にいた病院では宗教的な背景もあったので、
お別れ会として、スタッフみんなが集まり、
赤ちゃんとお母さんのために祈るひとときがありました。
お別れ会では、亡くなった小さな命に対して、
そして、悲しみにくれるお母さんやお父さん、ご家族に対して、
ボクら医療者の思いや祈りを伝えることができました。
それでご家族が少しで癒されることができれば、と思いました。
もちろん、形ばかりの儀式のように見えることもあったかもしれません。
受け止め方はいろいろあるでしょう。
しかし、お別れ会では、
悲しいお産に立ち会ったボクらスタッフが、
自分たちの気持ちを素直に表すことができました。
医療者は、患者さんが泣いているときでも、一緒に泣くのではなくて、
医療者として、冷静にそれを受け止めなくてはいけません。
だからといって、悲しくないわけではないのです。
死、という悲しみに、
素直に涙を流すひとときがあることで、
その悲しみを、人として受け入れることができます。
「先生、お別れ会、どうしましょう?」
悲しいお産の後に、お母さんからそう聞かれたこともあります。
看護師さんがお別れ会をしますか?と尋ねたのです。
お別れ会は、宗教色がないわけでもないので、
患者さんの中にはお別れ会を病院で受けることそのものに
抵抗を感じる方もありました。
「もしよければ、ボクたちに、赤ちゃんのためにお別れをする時間を少しだけください。 ボクたちが気持ちを整理して前に進むためにです。」
ボクは、そういってお別れ会をお願いしました。
今回の、この悲しいお産を、
若いドクターたちと振り返りながら、
できればこの病院でもお別れ会をしたいんだと話しました。
そこには宗教的な背景はとくにいらないと思います。
「先生、それで、赤ちゃんに手を合わせていたんですね。」
納得しました、とばかりに研修医の先生がいいました。
ボクが分娩室で手を合わせたのに、すこし驚いたのだそうです。
ボクのとった行動がおかしい、というのではなくて、
これまでに、そうするドクターがいなかったというのが理由のようです。
たとえ、何かの理由で医療者として赤ちゃんに手を合わせることができなくても、
人として手を合わせて欲しいと思います。
「一番大切なことは、今日の、このお産と赤ちゃんのことを、ずっと覚えておくことや。 絶対忘れんといて欲しい。」
純粋な、この先生たちに、ボクの思いがしっかりと伝えることができたと思います。
近くの医院から一人の妊婦さんが紹介されてきました。
妊娠7か月目の子宮内胎児死亡でした。
入院の時、ボクは家にいて当直の若いドクターから連絡を受けました。
「すこし時間が経っているようです。」
そのドクターが超音波などの診察の所見を説明してくれました。
あまり時間が経過すると母体にも影響が出てきます。
入院された日は、子宮口を拡げる処置をして、
次の日に陣痛を起こします。
治療方針と一般的な注意とをそのドクターに伝えました。
次の日、ボクは当直でした。
「明日はボクがいるからね。」
「わかりました。」
優秀な彼女(女性医師です)は、冷静に対応してくれることでしょう。
次の日、朝から陣痛促進剤を使い、陣痛を起こしました。
午後近くになって、陣痛が強まり、そろそろお産になりそうですと連絡がありました。
ボクは分娩室でこの方のお産に立ち会いました。
主治医であるそのドクターがお産の介助をし、ボクは分娩台の横から見守りました。
静かなお産です。
ほどなく、小さな赤ちゃんが卵膜に包まれたままで、お産になりました。
主治医の先生が卵膜をはさみで開き、赤ちゃんを見ると、
臍帯の過捻転がありました。
お腹の中で、胎児への血流が途絶えてしまったようです。
妊娠中期の子宮内胎児死亡の原因としては、
この臍帯過捻転がもっとも多いのです。
ボクは、御主人に説明し、
そして、頭を下げ、小さな赤ちゃんに手を合わせました。
「助けてあげられなくてごめんなさい。」
心の中で、赤ちゃんに話しました。
それに合わせて、御主人も、立ち会っていた若いドクターたちも、助産師も、
みんなが手を合わせてくれました。
お産を終えたお母さんも、静かに涙を流しています。
前にいた病院でも、やはり悲しいお産がありました。
そのたびごとに、
ボクはこうやって、手を合わせていました。
そして、前にいた病院では宗教的な背景もあったので、
お別れ会として、スタッフみんなが集まり、
赤ちゃんとお母さんのために祈るひとときがありました。
お別れ会では、亡くなった小さな命に対して、
そして、悲しみにくれるお母さんやお父さん、ご家族に対して、
ボクら医療者の思いや祈りを伝えることができました。
それでご家族が少しで癒されることができれば、と思いました。
もちろん、形ばかりの儀式のように見えることもあったかもしれません。
受け止め方はいろいろあるでしょう。
しかし、お別れ会では、
悲しいお産に立ち会ったボクらスタッフが、
自分たちの気持ちを素直に表すことができました。
医療者は、患者さんが泣いているときでも、一緒に泣くのではなくて、
医療者として、冷静にそれを受け止めなくてはいけません。
だからといって、悲しくないわけではないのです。
死、という悲しみに、
素直に涙を流すひとときがあることで、
その悲しみを、人として受け入れることができます。
「先生、お別れ会、どうしましょう?」
悲しいお産の後に、お母さんからそう聞かれたこともあります。
看護師さんがお別れ会をしますか?と尋ねたのです。
お別れ会は、宗教色がないわけでもないので、
患者さんの中にはお別れ会を病院で受けることそのものに
抵抗を感じる方もありました。
「もしよければ、ボクたちに、赤ちゃんのためにお別れをする時間を少しだけください。 ボクたちが気持ちを整理して前に進むためにです。」
ボクは、そういってお別れ会をお願いしました。
今回の、この悲しいお産を、
若いドクターたちと振り返りながら、
できればこの病院でもお別れ会をしたいんだと話しました。
そこには宗教的な背景はとくにいらないと思います。
「先生、それで、赤ちゃんに手を合わせていたんですね。」
納得しました、とばかりに研修医の先生がいいました。
ボクが分娩室で手を合わせたのに、すこし驚いたのだそうです。
ボクのとった行動がおかしい、というのではなくて、
これまでに、そうするドクターがいなかったというのが理由のようです。
たとえ、何かの理由で医療者として赤ちゃんに手を合わせることができなくても、
人として手を合わせて欲しいと思います。
「一番大切なことは、今日の、このお産と赤ちゃんのことを、ずっと覚えておくことや。 絶対忘れんといて欲しい。」
純粋な、この先生たちに、ボクの思いがしっかりと伝えることができたと思います。
「ひとは生きてきたように死ぬ」 [産婦人科医]
当直のある夜、申し送りの時、巡回してきた師長さんとナースが
ある患者さんのことについて詰所で話をしていました。
産婦人科の患者さんではないのでよく知らなかったのですが、
かなり長い間入院していたそうです。
このお正月に家族がやっと家に連れて帰ることになってよかった、という話です。
「家族って、一緒にいるのが一番なんですよね。」
ボクはいつもそう思っています。
入院が長くなればなるほど、家に帰るのが不安になるものですが、
それでも、自分の家以上に居心地がいい場所があるはずはないし、
家族が一緒にいればこそ頑張れると思っています。
「でも、あの患者さんは、そうじゃないんですよねぇ・・・。」
「そんなの寂しいやん。」
いろんな事情があるようです。家族が介護を完全に拒否しているらしいのです。
「その人にとって、家族ってなんなんでしょうね・・・。」
ため息をつきながら、静かに話していました。
そしたら、その師長さんがぽつりとこう言いました。
「○○師長さんがいつもいってるんです。 『ひとは生きてきたように死ぬ』って。」
多くの命を看取ってきた経験豊富なナースがいった一言が、ボクの心に突き刺さりました。
死ぬときこそ、その人の人柄がでるということなのでしょうが、
ボクは、家族を大切にしないことがいかに罪深いかという意味だと解釈しました。
それにしても、人の死に対して、あまりにも冷静な言葉です。
この冷静さがすこし、怖くもありました。
生まれてくることだけで一生懸命な小さな命をたくさん見つめてきたボクにとって、この言葉は衝撃でしたが、これからもすべての命を正面から受け止めていこうと思いました。
ある患者さんのことについて詰所で話をしていました。
産婦人科の患者さんではないのでよく知らなかったのですが、
かなり長い間入院していたそうです。
このお正月に家族がやっと家に連れて帰ることになってよかった、という話です。
「家族って、一緒にいるのが一番なんですよね。」
ボクはいつもそう思っています。
入院が長くなればなるほど、家に帰るのが不安になるものですが、
それでも、自分の家以上に居心地がいい場所があるはずはないし、
家族が一緒にいればこそ頑張れると思っています。
「でも、あの患者さんは、そうじゃないんですよねぇ・・・。」
「そんなの寂しいやん。」
いろんな事情があるようです。家族が介護を完全に拒否しているらしいのです。
「その人にとって、家族ってなんなんでしょうね・・・。」
ため息をつきながら、静かに話していました。
そしたら、その師長さんがぽつりとこう言いました。
「○○師長さんがいつもいってるんです。 『ひとは生きてきたように死ぬ』って。」
多くの命を看取ってきた経験豊富なナースがいった一言が、ボクの心に突き刺さりました。
死ぬときこそ、その人の人柄がでるということなのでしょうが、
ボクは、家族を大切にしないことがいかに罪深いかという意味だと解釈しました。
それにしても、人の死に対して、あまりにも冷静な言葉です。
この冷静さがすこし、怖くもありました。
生まれてくることだけで一生懸命な小さな命をたくさん見つめてきたボクにとって、この言葉は衝撃でしたが、これからもすべての命を正面から受け止めていこうと思いました。
メリークリスマス! [産婦人科医]
5年前のクリスマスイブの日、
ボクはこのブログを始めました。
毎日が忙しくて、しんどくて、大変でした。
何かを伝えなくてはいけない、と思い、
思いつくままに、このブログを続けてきました。
まだ5年、もう5年・・・。
長いような、短いような、時間です。
今年のクリスマスイブは3連休の真ん中で、のんびりしていました。
こののんびり感をしばらく味わっていませんでした。
「クリスマスに3連休なんて、外国みたいやん。」
朝からホームセンターで買い物をし、
午後は子供のスイミングの送り迎えをして、その足で予約したケーキをケーキ屋さんに取りに行ったり、
スーパーに子供用の炭酸水を買いに行ったりしました。
そして、行く先々で患者さんに出会います。
「先生、今日は休みなんですか?」
「おぉ、大きくなったねぇ~。」
自分が主治医をして生まれた子供たちと何人かと会いました。
ボクが子供を4人取り上げたお母さん、
このブログで書いたことのある方の旦那さん、
切迫早産で10週間くらい入院して無事、普通にお産になった3人家族、
お産でボクがかかわった人々と、いろんなところで出会いました。
毎年、書いていますが、
クリスマスは、サンタさんから子供たちへのご褒美がもらえる日。
そして、大人たちは、プレゼントをもらった子供の笑顔をみるというご褒美をもらえる日。
宗教を超えた、家族の愛に満ち溢れる日であると信じています。
そして、今年のクリスマスの朝は、ボクの子供がにっこりと微笑み、
ガッツポーズをしながらハイタッチをしてくれました。
今年もちゃんと子供たちにプレゼントをくれたサンタクロースに心から感謝します。
今日26日、外来で3歳くらいの男の子を連れた妊婦さんが受診されました。
男の子に、
「サンタさんからプレゼントもらえたん?」
と聞きました。
「・・・・。」
男の子は、もじもじとしながら、小さくうなづいてくれました。
「よかったなぁ。」
ボクもうれしく感じました。
「でも、一日遅れやったんやな。」
男の子は笑っていますが、お母さんが状況を補足してくれました。
どうやら、この子にサンタは一日遅れでプレゼントを持ってきてくれたようです。
「サンタも忙しいからな。」
来年は、この子にも弟か妹ができて、
さらに、にぎやかなクリスマスになっているのでしょう。
今度はちゃんとクリスマスの朝にもらえますように。
いろんなことを、しみじみ感じながら過ごしたクリスマスでした。
今年も残りわずかですが、皆さんに
メリークリスマス!
ボクはこのブログを始めました。
毎日が忙しくて、しんどくて、大変でした。
何かを伝えなくてはいけない、と思い、
思いつくままに、このブログを続けてきました。
まだ5年、もう5年・・・。
長いような、短いような、時間です。
今年のクリスマスイブは3連休の真ん中で、のんびりしていました。
こののんびり感をしばらく味わっていませんでした。
「クリスマスに3連休なんて、外国みたいやん。」
朝からホームセンターで買い物をし、
午後は子供のスイミングの送り迎えをして、その足で予約したケーキをケーキ屋さんに取りに行ったり、
スーパーに子供用の炭酸水を買いに行ったりしました。
そして、行く先々で患者さんに出会います。
「先生、今日は休みなんですか?」
「おぉ、大きくなったねぇ~。」
自分が主治医をして生まれた子供たちと何人かと会いました。
ボクが子供を4人取り上げたお母さん、
このブログで書いたことのある方の旦那さん、
切迫早産で10週間くらい入院して無事、普通にお産になった3人家族、
お産でボクがかかわった人々と、いろんなところで出会いました。
毎年、書いていますが、
クリスマスは、サンタさんから子供たちへのご褒美がもらえる日。
そして、大人たちは、プレゼントをもらった子供の笑顔をみるというご褒美をもらえる日。
宗教を超えた、家族の愛に満ち溢れる日であると信じています。
そして、今年のクリスマスの朝は、ボクの子供がにっこりと微笑み、
ガッツポーズをしながらハイタッチをしてくれました。
今年もちゃんと子供たちにプレゼントをくれたサンタクロースに心から感謝します。
今日26日、外来で3歳くらいの男の子を連れた妊婦さんが受診されました。
男の子に、
「サンタさんからプレゼントもらえたん?」
と聞きました。
「・・・・。」
男の子は、もじもじとしながら、小さくうなづいてくれました。
「よかったなぁ。」
ボクもうれしく感じました。
「でも、一日遅れやったんやな。」
男の子は笑っていますが、お母さんが状況を補足してくれました。
どうやら、この子にサンタは一日遅れでプレゼントを持ってきてくれたようです。
「サンタも忙しいからな。」
来年は、この子にも弟か妹ができて、
さらに、にぎやかなクリスマスになっているのでしょう。
今度はちゃんとクリスマスの朝にもらえますように。
いろんなことを、しみじみ感じながら過ごしたクリスマスでした。
今年も残りわずかですが、皆さんに
メリークリスマス!
少し早いクリスマスプレゼント [産婦人科医]
今の病院では、外来の担当をする日以外はたいてい手術があります。
これまでは手術といえばほとんどが産科の帝王切開でしたが、
今は婦人科の手術もたくさんあります。
「帝王切開なら目をつむっていてもうまくできる」っていうと言い過ぎかもしれませんが、
前の病院で800回位している(たぶん)のでそれなりにいろんなバリエーションも経験しています。
逆子になっている500グラムくらいの赤ちゃんを、母体(子宮)をなるべく傷つけずに産ませることもやってきました。
しかし、
子宮筋腫や卵巣嚢腫の手術ならともかく、
婦人科がんの手術、子宮がんや卵巣がんの手術は想像以上に細かい手術でした。
リンパ節を廓清するのにはたくさんの技術と経験が必要です。
そして、中年になってこういう手術の修業をあらためて始めたボクにとって、
なによりも「視力」が必要なのです。
ただでさえ老眼鏡が必要になる年代です。
今の上司の強い勧めで、手術用のルーペを買いました。

これって、けっこういい値段なんですが、退職金を使うことにしました。
ボクへの少し早いクリスマスプレゼントです。
先日、まずは執刀医ではなくて介助医で入った手術の時に装着してみました。
ちょっと気恥ずかしかったです。
なかなか慣れなくて、手術が終わったときにはふらふらしていましたが、
上司の先生によると、
「すぐに慣れるから大丈夫。 これで、婦人科医としての選手生命が10年は延びるから。」
「ほんまですかぁ・・・?」
頑張って、早く慣れたいものです。
そして、きっとたくさんの命に向かい合うことになるんだと思いました。
ちなみに、ドラマ「医龍」の坂口憲二の気分が味わえます。
実際の見た目はドラマとはかなり違います。
(眼力は負けてないと思うけど・・・。)

(これは「医龍3」のシーンです)
ボクとほかの先生4人(女性の先生ひとりを含む)も一緒に5人で購入したので、
まさかのレンジャーものの再来かもしれません。
いい名前を思いつきませんが
今度はボクの立ち位置は後ろの方ですよ。

(これは懐かしいゴレンジャー(前出))
これまでは手術といえばほとんどが産科の帝王切開でしたが、
今は婦人科の手術もたくさんあります。
「帝王切開なら目をつむっていてもうまくできる」っていうと言い過ぎかもしれませんが、
前の病院で800回位している(たぶん)のでそれなりにいろんなバリエーションも経験しています。
逆子になっている500グラムくらいの赤ちゃんを、母体(子宮)をなるべく傷つけずに産ませることもやってきました。
しかし、
子宮筋腫や卵巣嚢腫の手術ならともかく、
婦人科がんの手術、子宮がんや卵巣がんの手術は想像以上に細かい手術でした。
リンパ節を廓清するのにはたくさんの技術と経験が必要です。
そして、中年になってこういう手術の修業をあらためて始めたボクにとって、
なによりも「視力」が必要なのです。
ただでさえ老眼鏡が必要になる年代です。
今の上司の強い勧めで、手術用のルーペを買いました。

これって、けっこういい値段なんですが、退職金を使うことにしました。
ボクへの少し早いクリスマスプレゼントです。
先日、まずは執刀医ではなくて介助医で入った手術の時に装着してみました。
ちょっと気恥ずかしかったです。
なかなか慣れなくて、手術が終わったときにはふらふらしていましたが、
上司の先生によると、
「すぐに慣れるから大丈夫。 これで、婦人科医としての選手生命が10年は延びるから。」
「ほんまですかぁ・・・?」
頑張って、早く慣れたいものです。
そして、きっとたくさんの命に向かい合うことになるんだと思いました。
ちなみに、ドラマ「医龍」の坂口憲二の気分が味わえます。
実際の見た目はドラマとはかなり違います。
(眼力は負けてないと思うけど・・・。)

(これは「医龍3」のシーンです)
ボクとほかの先生4人(女性の先生ひとりを含む)も一緒に5人で購入したので、
まさかのレンジャーものの再来かもしれません。
いい名前を思いつきませんが
今度はボクの立ち位置は後ろの方ですよ。

(これは懐かしいゴレンジャー(前出))
向かう方向が見えてきた [産婦人科医]
新しい病院にきて、もうすぐ2ヶ月です。
先々週は、小児科のNICUのリーダーの先生たちともごはん食べに行きました。
手持ちのワインを持ち込んでのフランス料理でした。
そこで、今の病院の産科と小児科がかかえていて、解決するべきいくつかの問題について話し合い、
今後の方向性を確認しました。
もちろん、自分たちの家族のこと、趣味など、そんなことを話し合うのも
お互いの人柄を理解し合うのに必要です。
中年男3人がフランス料理はどうかとも思いましたが、意外と楽しかったです。
また行きましょう、と締めくくったのですが、
やはり、すこし色気がなかったので、
今度は、違うメンツを入れるのも悪くないかな、と思いました。
ちなみに、京都では、一緒に美味しいご飯を食べて交流することを、
「ごはん食べ」と言います。
つまり、「ごはん」食べに行く、ではなくて
「ごはん食べ」に行く、が正しいのです。
若い先生たちとも2、3回くらい飲みに行きました。
数日前に行ったときには、地酒が美味しい居酒屋さんを教えてもらいました。
腹を割って話し合う、という言葉がぴったりの時間でした。
病院の中ではいえない、日頃彼らが感じている本音を聞き、
自分が若い頃、こんな感じで話を聞いてくれた先輩はいなかったなぁ、と、
思いながら、口当たりのよすぎる日本酒をついつい飲み過ぎてしまいました。
次の日、
「ボク、最後の方、記憶が途切れ途切れなんだけど、ちゃんとお金払った?
変なこと言ってなかった?
フランス語とかしゃべってなかった?」
病棟で処置やカルテ書きに忙しそうな先生たちに聞いてみましたが、
「大丈夫。 ばっちりでしたよ。」
「(ばっちり、って何が?) あ、そう。」
「いい感じで毒も吐いてはりました。」
「(そこは記憶が残ってるよ。)ホンマ?」
「セーフでした。」
「よかった。 わはは。」
どうやら、酔ってしまったボクは、きわめて理路整然と、
ドクターとして、医療チームとして、あるいは家庭人として、
生き方について説教していたようです。
そんな「時間外活動」はさておき、
先日、病院の経営企画課が行う、各科ヒヤリングがありました。
来年度の病院経営に関する各科のヒヤリングで、院長や事務長などが中心です。
こちらからは診療科長1名、産科医長2名、婦人科医長1名、病棟師長が参加しました。
それぞれの診療科の方向性、それに伴う経費と収入増加のめどをたてるという目的です。
ボクは産婦人科のうち、産科担当です。
あらかじめ、患者数の増減、診療単価(一人の患者さんが1日で払うお金)や病床の稼働率など、
収入に関わる「数字」をそれなりの理由を持って計算して、
それ以外に産科のかかえる問題も予備資料として提出しておきました。
検討され、それらを解決する手段も話し合われます。
前の病院でも部長としてやらされていた作業でもあるので、問題ありません。
産科と婦人科、別々に行われたのですが、
いくつかの質問を受けるうちに、
この病院の中での産婦人科の位置づけがどの辺りで、
そして、何を期待されているか、ということが逆によくわかりました。
最後に、今後の方針について、院長や副院長からいくつかのアドバイスをいただき、
ヒヤリングは終了しました。
ボクが話したことをすべて瞬時に理解して、説明不足の部分にはするどい質問があり、
さらに的確にアドバイスがありました。
こんな大病院の院長、副院長クラスになると、
医療者としてももちろんですが、管理者としての能力も
人並み以上を必要とされているのだろうと感じました。
この2ヶ月の中で、
若い先生たち、現場のリーダー、病院上層部、
ひと通りのスタッフたちとコミュニケーションがとれました。
これから向かうべき方向と、一緒に頑張るチームが見えてきました。
ここがもっといい病院になって、
みんなが「この病院で働きたい。一緒に頑張りたい。」といってもらえるようにできるはずです。
そして、たくさんの命が安心して生まれることができるようになるはずです。
先々週は、小児科のNICUのリーダーの先生たちともごはん食べに行きました。
手持ちのワインを持ち込んでのフランス料理でした。
そこで、今の病院の産科と小児科がかかえていて、解決するべきいくつかの問題について話し合い、
今後の方向性を確認しました。
もちろん、自分たちの家族のこと、趣味など、そんなことを話し合うのも
お互いの人柄を理解し合うのに必要です。
中年男3人がフランス料理はどうかとも思いましたが、意外と楽しかったです。
また行きましょう、と締めくくったのですが、
やはり、すこし色気がなかったので、
今度は、違うメンツを入れるのも悪くないかな、と思いました。
ちなみに、京都では、一緒に美味しいご飯を食べて交流することを、
「ごはん食べ」と言います。
つまり、「ごはん」食べに行く、ではなくて
「ごはん食べ」に行く、が正しいのです。
若い先生たちとも2、3回くらい飲みに行きました。
数日前に行ったときには、地酒が美味しい居酒屋さんを教えてもらいました。
腹を割って話し合う、という言葉がぴったりの時間でした。
病院の中ではいえない、日頃彼らが感じている本音を聞き、
自分が若い頃、こんな感じで話を聞いてくれた先輩はいなかったなぁ、と、
思いながら、口当たりのよすぎる日本酒をついつい飲み過ぎてしまいました。
次の日、
「ボク、最後の方、記憶が途切れ途切れなんだけど、ちゃんとお金払った?
変なこと言ってなかった?
フランス語とかしゃべってなかった?」
病棟で処置やカルテ書きに忙しそうな先生たちに聞いてみましたが、
「大丈夫。 ばっちりでしたよ。」
「(ばっちり、って何が?) あ、そう。」
「いい感じで毒も吐いてはりました。」
「(そこは記憶が残ってるよ。)ホンマ?」
「セーフでした。」
「よかった。 わはは。」
どうやら、酔ってしまったボクは、きわめて理路整然と、
ドクターとして、医療チームとして、あるいは家庭人として、
生き方について説教していたようです。
そんな「時間外活動」はさておき、
先日、病院の経営企画課が行う、各科ヒヤリングがありました。
来年度の病院経営に関する各科のヒヤリングで、院長や事務長などが中心です。
こちらからは診療科長1名、産科医長2名、婦人科医長1名、病棟師長が参加しました。
それぞれの診療科の方向性、それに伴う経費と収入増加のめどをたてるという目的です。
ボクは産婦人科のうち、産科担当です。
あらかじめ、患者数の増減、診療単価(一人の患者さんが1日で払うお金)や病床の稼働率など、
収入に関わる「数字」をそれなりの理由を持って計算して、
それ以外に産科のかかえる問題も予備資料として提出しておきました。
検討され、それらを解決する手段も話し合われます。
前の病院でも部長としてやらされていた作業でもあるので、問題ありません。
産科と婦人科、別々に行われたのですが、
いくつかの質問を受けるうちに、
この病院の中での産婦人科の位置づけがどの辺りで、
そして、何を期待されているか、ということが逆によくわかりました。
最後に、今後の方針について、院長や副院長からいくつかのアドバイスをいただき、
ヒヤリングは終了しました。
ボクが話したことをすべて瞬時に理解して、説明不足の部分にはするどい質問があり、
さらに的確にアドバイスがありました。
こんな大病院の院長、副院長クラスになると、
医療者としてももちろんですが、管理者としての能力も
人並み以上を必要とされているのだろうと感じました。
この2ヶ月の中で、
若い先生たち、現場のリーダー、病院上層部、
ひと通りのスタッフたちとコミュニケーションがとれました。
これから向かうべき方向と、一緒に頑張るチームが見えてきました。
ここがもっといい病院になって、
みんなが「この病院で働きたい。一緒に頑張りたい。」といってもらえるようにできるはずです。
そして、たくさんの命が安心して生まれることができるようになるはずです。
今日で卒業しました。 [産婦人科医]
ボクが前の病院に着任した頃にさかのぼります。
10年くらい前になります。
ひとりの女の子がNICU入院していました。
早産の治療中に急変して帝王切開となったのですが、
結果として先天性脳性麻痺となってしまいました。
ボクが着任したころ、この子はNICUにすでに1年近くも入院していました。
うちの病院で重症仮死で生まれて、ずっと退院できずにいたのです。
小児科の先生はどんなときもこの子のことを大切に大切に治療されていました。
そして、しばらくして、
そのお母さんがふたたび妊娠されました。
着任したばかりのボクの外来を受診されました。
「先生、よろしくお願いします。」
聞くところによると、小児科の先生から
妊娠したらボクの外来で診てもらうように言われたそうです。
まだ、着任して間もないころです。
小児科の先生ともそんなにコミュニケーションが取れている時期でもなかったのですが。
「先生なら間違いない、って言われました。」
「わかりました。 一緒に頑張りましょう。」
前の妊娠が、かなり初期から子宮口が開いてきたこと、
また、家がかなりの遠方で通院に負担がかかること、
なによりも上のお子さんがNICUにずっと入院していることもあり、
少しでもお腹が張ると入院することを希望されました。
妊娠7か月頃から断続的に安静入院となりました。
入院の時、御主人と初めて面会しました。
「先生、上の子のおかげで、ボクらの生活は大変なんです。 今、おなかにいる子だけはなんとか健康で生ませてください。」
「わかりました。 できることは全部やりましょう。」
ボクもまだ自分が周産期医として自覚していないころです。
表面的な言葉だけでは伝えられない、切実な叫びでした。
帝王切開は少しでも早い時期にという家族の希望もあり、小児科の先生の許可も出たので、
満期に入る少し前に帝王切開を行いました。
帝王切開の前に、御主人があらたまって話がある、と来られました。
「先生。 お願いがあるんです。」
「なんですか?」
「手術室に立ち会わせてください。」
「いいでしょう。」
「この目で、元気な赤ちゃんかどうかを、生まれてすぐに自分で確認したいんです。」
「わかりました。」
「それで、もし、元気じゃなかったら・・・。 ぼくは子供を自分の手で殺します。 先生に迷惑がかからないように、その足で警察に自首します。 ぼくに、そのチャンスをください。 ぼくら家族は、これ以上障害のある子どもを産むわけにはいかないんです。」
ある意味、衝撃的な言葉ですが、本音でもあるのでしょう。
ボクはこの、御主人の言葉を真摯に受け止めました。
絶対に、元気な赤ちゃんを産んでもらおうと、気を引き締めました。
「気持ちはよくわかります。 でも、大丈夫。 ボクと小児科の先生で、お腹の赤ちゃんを元気に取り上げますよ。 保育器に入ると思うけれど、それくらいだったら、そんなことしないでくださいね。」
帝王切開は無事に終わり、小さな女の赤ちゃんが生まれました。
元気です。
御主人は、いまにもへなへなと座り込んでしまうくらい放心状態です。
心配していたのでしょう。
「おめでとうございます。」
生まれた赤ちゃんもお姉ちゃんと一緒にNICUに入院しました。
そして、お姉ちゃんは、妹が生まれるのに合わせて在宅医療の準備が進んでいたのです。
気管切開して酸素も投与されているので、まずは、自宅の近くの小児科がある病院へ転院です。
その自宅から近い病院でしばらく経過を見て、自宅で家族一緒に過ごす予定でした。
妹さんもしばらくして退院して何週間かしたころ、
お姉ちゃんが転院先の病院で急変しました。
急性の呼吸障害でした。
感染症も併発して、お姉ちゃんはあっという間に亡くなりました。
この子を大切に診ていた、いや、育て上げた、小児科の先生は、
すぐに転院先に飛んでいきましたが、間に合わなかったそうです。
1年とすこしの、とても短い命でした。
お姉ちゃんが、新しく生まれた妹と一緒に過ごせたのは、
妹がすこし早く生まれたからという理由ではいったNICUの中だけでした。
ボクは、この方とお姉ちゃんと、自分が取り上げた妹ちゃんのことをすっかり忘れていました。
ボクが前の病院を退職する9月の外来のある日、
産婦人科受付の助産師さんが小さなメモを持ってきてくれました。
「先生、患者さんが、このメモを渡してほしいって置いていかれました。」
「誰かわかりませんが、見たらわかってもらえるはずだって。」
そのメモには、患者さんの名前と、こう書いてありました。
「小児科を、今日で卒業しました。 あの時はお世話になりました。 新しい病院でもお体に気を付けてください。」
患者さんの名前を見て、一瞬でたくさんのことを思い出しました。
35週くらいで生まれた妹ちゃんは、小児科の発達外来では、障害もなくなんの問題もない子供でしょう。
それでも、定期的に小児科の先生の診察を受けていたのです。
きっと小児科のカルテには、「発達、異常なし」という内容が毎回記入されていたはずです。
そして、今日、やっと、小児科の先生から「卒業」という言葉をもらったのでしょう。
そう、あの、お父さんは元気で頑張っているのでしょうか?
それにしても、家族4人が一緒に過ごすことはできなかったのが残念でなりません。
「今日で卒業しました。」という、この方の言葉の向こう側には、
まだまだたくさんの思いが詰まっているようにも思えました。
ボクは、一瞬でも、診察室から飛び出して、この方と、大きく育った妹ちゃんの顔を見たかったのですが、
すでに多くの患者さんでごった返している、数時間待ちの外来の待合室から、
この方はあえて、小さなメモでメッセージをくれました。
きっと、
「自分たちに会う時間があれば、一人で多くの患者さんを、少しでも早く診察してあげてください」
という気持であったのではと解釈しました。
「先生、いいんですか?」
と聞いてくれた助産師さんに、
「いいわ。 このメモで十分。」
そういいながら、次に診察する患者さんの名前を診察室からマイクで呼びました。
ボクの元気な声が聞こえているはずだと思いながら。
10年くらい前になります。
ひとりの女の子がNICU入院していました。
早産の治療中に急変して帝王切開となったのですが、
結果として先天性脳性麻痺となってしまいました。
ボクが着任したころ、この子はNICUにすでに1年近くも入院していました。
うちの病院で重症仮死で生まれて、ずっと退院できずにいたのです。
小児科の先生はどんなときもこの子のことを大切に大切に治療されていました。
そして、しばらくして、
そのお母さんがふたたび妊娠されました。
着任したばかりのボクの外来を受診されました。
「先生、よろしくお願いします。」
聞くところによると、小児科の先生から
妊娠したらボクの外来で診てもらうように言われたそうです。
まだ、着任して間もないころです。
小児科の先生ともそんなにコミュニケーションが取れている時期でもなかったのですが。
「先生なら間違いない、って言われました。」
「わかりました。 一緒に頑張りましょう。」
前の妊娠が、かなり初期から子宮口が開いてきたこと、
また、家がかなりの遠方で通院に負担がかかること、
なによりも上のお子さんがNICUにずっと入院していることもあり、
少しでもお腹が張ると入院することを希望されました。
妊娠7か月頃から断続的に安静入院となりました。
入院の時、御主人と初めて面会しました。
「先生、上の子のおかげで、ボクらの生活は大変なんです。 今、おなかにいる子だけはなんとか健康で生ませてください。」
「わかりました。 できることは全部やりましょう。」
ボクもまだ自分が周産期医として自覚していないころです。
表面的な言葉だけでは伝えられない、切実な叫びでした。
帝王切開は少しでも早い時期にという家族の希望もあり、小児科の先生の許可も出たので、
満期に入る少し前に帝王切開を行いました。
帝王切開の前に、御主人があらたまって話がある、と来られました。
「先生。 お願いがあるんです。」
「なんですか?」
「手術室に立ち会わせてください。」
「いいでしょう。」
「この目で、元気な赤ちゃんかどうかを、生まれてすぐに自分で確認したいんです。」
「わかりました。」
「それで、もし、元気じゃなかったら・・・。 ぼくは子供を自分の手で殺します。 先生に迷惑がかからないように、その足で警察に自首します。 ぼくに、そのチャンスをください。 ぼくら家族は、これ以上障害のある子どもを産むわけにはいかないんです。」
ある意味、衝撃的な言葉ですが、本音でもあるのでしょう。
ボクはこの、御主人の言葉を真摯に受け止めました。
絶対に、元気な赤ちゃんを産んでもらおうと、気を引き締めました。
「気持ちはよくわかります。 でも、大丈夫。 ボクと小児科の先生で、お腹の赤ちゃんを元気に取り上げますよ。 保育器に入ると思うけれど、それくらいだったら、そんなことしないでくださいね。」
帝王切開は無事に終わり、小さな女の赤ちゃんが生まれました。
元気です。
御主人は、いまにもへなへなと座り込んでしまうくらい放心状態です。
心配していたのでしょう。
「おめでとうございます。」
生まれた赤ちゃんもお姉ちゃんと一緒にNICUに入院しました。
そして、お姉ちゃんは、妹が生まれるのに合わせて在宅医療の準備が進んでいたのです。
気管切開して酸素も投与されているので、まずは、自宅の近くの小児科がある病院へ転院です。
その自宅から近い病院でしばらく経過を見て、自宅で家族一緒に過ごす予定でした。
妹さんもしばらくして退院して何週間かしたころ、
お姉ちゃんが転院先の病院で急変しました。
急性の呼吸障害でした。
感染症も併発して、お姉ちゃんはあっという間に亡くなりました。
この子を大切に診ていた、いや、育て上げた、小児科の先生は、
すぐに転院先に飛んでいきましたが、間に合わなかったそうです。
1年とすこしの、とても短い命でした。
お姉ちゃんが、新しく生まれた妹と一緒に過ごせたのは、
妹がすこし早く生まれたからという理由ではいったNICUの中だけでした。
ボクは、この方とお姉ちゃんと、自分が取り上げた妹ちゃんのことをすっかり忘れていました。
ボクが前の病院を退職する9月の外来のある日、
産婦人科受付の助産師さんが小さなメモを持ってきてくれました。
「先生、患者さんが、このメモを渡してほしいって置いていかれました。」
「誰かわかりませんが、見たらわかってもらえるはずだって。」
そのメモには、患者さんの名前と、こう書いてありました。
「小児科を、今日で卒業しました。 あの時はお世話になりました。 新しい病院でもお体に気を付けてください。」
患者さんの名前を見て、一瞬でたくさんのことを思い出しました。
35週くらいで生まれた妹ちゃんは、小児科の発達外来では、障害もなくなんの問題もない子供でしょう。
それでも、定期的に小児科の先生の診察を受けていたのです。
きっと小児科のカルテには、「発達、異常なし」という内容が毎回記入されていたはずです。
そして、今日、やっと、小児科の先生から「卒業」という言葉をもらったのでしょう。
そう、あの、お父さんは元気で頑張っているのでしょうか?
それにしても、家族4人が一緒に過ごすことはできなかったのが残念でなりません。
「今日で卒業しました。」という、この方の言葉の向こう側には、
まだまだたくさんの思いが詰まっているようにも思えました。
ボクは、一瞬でも、診察室から飛び出して、この方と、大きく育った妹ちゃんの顔を見たかったのですが、
すでに多くの患者さんでごった返している、数時間待ちの外来の待合室から、
この方はあえて、小さなメモでメッセージをくれました。
きっと、
「自分たちに会う時間があれば、一人で多くの患者さんを、少しでも早く診察してあげてください」
という気持であったのではと解釈しました。
「先生、いいんですか?」
と聞いてくれた助産師さんに、
「いいわ。 このメモで十分。」
そういいながら、次に診察する患者さんの名前を診察室からマイクで呼びました。
ボクの元気な声が聞こえているはずだと思いながら。
お昼ご飯にお赤飯を買いました [産婦人科医]
前の病院を退職して、
今日から新しい病院に来ました。
10月1日付ですが土日を挟んだので、
今日が初日です。
病院は自宅から少し遠くなりました。
(っていうか、前が近すぎたのかもしれません)
朝一番に院長から辞令をいただきました。
名札の写真を撮影して、医局秘書さんにロッカーの場所を教えてもらい、
諸々の手続きのオリエンテーションがありました。
その後、先輩の先生が手術が終わって案内してくれました。
手術室、外来、病棟、分娩室、ICU・・・。
何人か、ドクターやナースを紹介されましたが、
一度には覚えられません。
自分が15年前までの3年弱、ここで働いていて、
若いころに、いろんなことを経験して、勉強して、
うれしい気持ちや怖い気持ちだったことを
思い出しながら回りました。
本当に気が引き締まります。
これからまた、この病院でたくさんの命と向かい合っていくのです。
お昼になって、お腹がすいたので、
「先生、お腹がすきました。」
「じゃあ、休憩しましょう。」
先輩の先生と別れて、院内のコンビニにお昼ごはんを買いに行きました。
ボクがいたころよりずいぶん店舗面積も大きくなり、大手のコンビニ業者が入っていました。
昔は、もっと小さくて、暗くて、並んでるお弁当の種類も少なかったのです。
いわゆる「売店」ってカンジでした。
何にしようかな?って思っている瞬間に、
ボクが昔担当していた患者さんのことを思い出しました。
その方は卵巣がんの患者さんでした。
今でも、フルネームと顔を思い浮かべることができます。
塾の先生をしている、小柄な方でした。
年齢は・・・
もしかしたら、ちょうど今のボクくらいだったかもしれません。
手術をして、化学療法を数回して、数か月の入院ののち、もうすぐ退院かという頃でした。
ボクは朝ごはんを買いに、その「売店」に行きました。
病院の中の宿舎に住んでいたので、
朝ごはんをそこで買って、そのまま仕事するというリズムです。
朝一番のお弁当なんて種類が少ないし、お金もないし、
つい、いつも同じような、コストパフォーマンス重視の朝ごはんです。
ボクはいつものように、
お赤飯のパックを手に取り、レジに並んでいました。
「先生、朝からお赤飯ですか?」
後ろから、その患者さんが声をかけてきました。
「うん。」
「先生、お赤飯好きなんですか?」
「そう、好きやねん。」
安くて、量が多いなんて言えなかったし、
実際、飽きないので、毎日でもお赤飯は食べられます。
そして、そんなことがあったあと、
その患者さんは無事退院されて、
ボクの外来を受診されました。
外来でも化学療法を何度かしました。
ある診察の日、
この患者さんが、
「はい、先生、これどうぞ。」
「なに?」
紙袋を渡されて、覗き込んでみると、
お赤飯でした。
それも、患者さんのお手製です。
「先生、お赤飯好き、っていってはったでしょ?」
「うそー。 めちゃうれしいわ。 ありがとー。」
外来が終わって、一人でそのお赤飯をお腹いっぱい食べました。
美味しかったです。
そのあと、間もなくして、ボクはほかの病院に移りました。
風の便りで、
その方が再発したと聞きました。
脳に転移して、あっという間に亡くなったそうです。
今日、ボクは、この病院にきて、
15年前と同じように、ご飯を買いに行きました。
何にしようか悩んで、おにぎりやサンドイッチが並んでいる棚の前に立った瞬間、
お赤飯のおにぎりがこっちを向いているように見えたのです。
「ここは、お赤飯しかないやろ。」
この時、ボクは、あの亡くなった患者さんを思い出しました。
ボクはお赤飯と、ついでにもう1個サンドイッチも買って、
レジに並びました。
お金を払う直前に、後ろを振り返ったけど、
その患者さんはもちろんいませんでした。
若い看護婦さんがびっくりしたような顔をしているだけでした。
「〇〇さん、ボク、帰ってきたわ。」
上を向いて、心の中でつぶやきました。
どこかで、あの患者さんが自分を見てくれているような気持ちがしました。
そして、医局の、まだ荷物が片付かないデスクでお赤飯のおにぎりを食べながら、
これから始まる、新しい生活を思いました。
職場が変わっても、
ひとりひとりの命に向かい合うことには変わりはありません。
また、これから産婦人科医として、
頑張ります。
今日から新しい病院に来ました。
10月1日付ですが土日を挟んだので、
今日が初日です。
病院は自宅から少し遠くなりました。
(っていうか、前が近すぎたのかもしれません)
朝一番に院長から辞令をいただきました。
名札の写真を撮影して、医局秘書さんにロッカーの場所を教えてもらい、
諸々の手続きのオリエンテーションがありました。
その後、先輩の先生が手術が終わって案内してくれました。
手術室、外来、病棟、分娩室、ICU・・・。
何人か、ドクターやナースを紹介されましたが、
一度には覚えられません。
自分が15年前までの3年弱、ここで働いていて、
若いころに、いろんなことを経験して、勉強して、
うれしい気持ちや怖い気持ちだったことを
思い出しながら回りました。
本当に気が引き締まります。
これからまた、この病院でたくさんの命と向かい合っていくのです。
お昼になって、お腹がすいたので、
「先生、お腹がすきました。」
「じゃあ、休憩しましょう。」
先輩の先生と別れて、院内のコンビニにお昼ごはんを買いに行きました。
ボクがいたころよりずいぶん店舗面積も大きくなり、大手のコンビニ業者が入っていました。
昔は、もっと小さくて、暗くて、並んでるお弁当の種類も少なかったのです。
いわゆる「売店」ってカンジでした。
何にしようかな?って思っている瞬間に、
ボクが昔担当していた患者さんのことを思い出しました。
その方は卵巣がんの患者さんでした。
今でも、フルネームと顔を思い浮かべることができます。
塾の先生をしている、小柄な方でした。
年齢は・・・
もしかしたら、ちょうど今のボクくらいだったかもしれません。
手術をして、化学療法を数回して、数か月の入院ののち、もうすぐ退院かという頃でした。
ボクは朝ごはんを買いに、その「売店」に行きました。
病院の中の宿舎に住んでいたので、
朝ごはんをそこで買って、そのまま仕事するというリズムです。
朝一番のお弁当なんて種類が少ないし、お金もないし、
つい、いつも同じような、コストパフォーマンス重視の朝ごはんです。
ボクはいつものように、
お赤飯のパックを手に取り、レジに並んでいました。
「先生、朝からお赤飯ですか?」
後ろから、その患者さんが声をかけてきました。
「うん。」
「先生、お赤飯好きなんですか?」
「そう、好きやねん。」
安くて、量が多いなんて言えなかったし、
実際、飽きないので、毎日でもお赤飯は食べられます。
そして、そんなことがあったあと、
その患者さんは無事退院されて、
ボクの外来を受診されました。
外来でも化学療法を何度かしました。
ある診察の日、
この患者さんが、
「はい、先生、これどうぞ。」
「なに?」
紙袋を渡されて、覗き込んでみると、
お赤飯でした。
それも、患者さんのお手製です。
「先生、お赤飯好き、っていってはったでしょ?」
「うそー。 めちゃうれしいわ。 ありがとー。」
外来が終わって、一人でそのお赤飯をお腹いっぱい食べました。
美味しかったです。
そのあと、間もなくして、ボクはほかの病院に移りました。
風の便りで、
その方が再発したと聞きました。
脳に転移して、あっという間に亡くなったそうです。
今日、ボクは、この病院にきて、
15年前と同じように、ご飯を買いに行きました。
何にしようか悩んで、おにぎりやサンドイッチが並んでいる棚の前に立った瞬間、
お赤飯のおにぎりがこっちを向いているように見えたのです。
「ここは、お赤飯しかないやろ。」
この時、ボクは、あの亡くなった患者さんを思い出しました。
ボクはお赤飯と、ついでにもう1個サンドイッチも買って、
レジに並びました。
お金を払う直前に、後ろを振り返ったけど、
その患者さんはもちろんいませんでした。
若い看護婦さんがびっくりしたような顔をしているだけでした。
「〇〇さん、ボク、帰ってきたわ。」
上を向いて、心の中でつぶやきました。
どこかで、あの患者さんが自分を見てくれているような気持ちがしました。
そして、医局の、まだ荷物が片付かないデスクでお赤飯のおにぎりを食べながら、
これから始まる、新しい生活を思いました。
職場が変わっても、
ひとりひとりの命に向かい合うことには変わりはありません。
また、これから産婦人科医として、
頑張ります。
「退職のお知らせ」 [産婦人科医]
このたび、ボクは今月いっぱいで、この病院を退職します。
退職というと、「引退」あるいは、「個人開業」のイメージがあるそうなのですが
そうではなくて、新しい病院でまた引き続き頑張ります。
病院の受付や診察室の前の掲示板に、
「〇〇医師、退職のお知らせ」
と掲示されているので、診察室に入ってくる患者さんたちは、
「先生、退職って、開業されるんですか?まさか、引退じゃないですよね?」
「開業じゃないんです。転勤なんです。」
「どこの病院ですか?」
「〇〇区にある病院です。」
「ちょっと、遠いですね~。」
「でしょう? でも、この病院から10㎞そこそこですよ。」
「えー、この近くで開業してくれるなら先生についていくのに。」
たいてい、こんな感じです。
「大丈夫。ちゃんと、次の担当の先生に申し送っておきますから安心してください。」
妊婦さんの性格をある程度考えたうえで、それぞれの先生にお願いしていきます。
うちの病院でお産するつもりの妊婦さんがボクのせいで、
わざわざ家から遠い病院に移ってお産をする必要は全くありません。
ボクがいなくなったくらいで突然レベルダウンするようなものではありません。
うちの産科は、もちろん外来も含めて、「最高のチーム」です。
それに、同じフロアの中に、天下無敵のNICUもあります。
引き続き安心して健診を続けてもらえることでしょう。
それに、後任の部長がまたまたいい感じです。
温厚で、冷静で、優秀です。
きっと、もっと素晴らしいチームが出来上がることでしょう。
こんどは病院の外から、この病院の活躍を見ることができるかと思うと、
それはそれで、わくわくするものです。
言葉の上では、単なる「退職」ですが、
ボク自身が産婦人科医としてさらなるステップを上がっていくために環境が変わることでもあり、
自分を今まで助けてくれたチームが、今度はあらたなリーダーを得て、
更なる進化をしていくきっかけにもなることであるとも思います。
先週、大学の教授のアポイントを取って、今回の異動について挨拶に行きました。
ほんの数分間でしたが最後に、
「次の病院に行っても、頑張ります!」
と力を込めて挨拶したら、
「そんなに頑張らなくてもいいよ。」
と教授から言われました。
肩の力を少しは抜いて、これからも頑張ります。
退職というと、「引退」あるいは、「個人開業」のイメージがあるそうなのですが
そうではなくて、新しい病院でまた引き続き頑張ります。
病院の受付や診察室の前の掲示板に、
「〇〇医師、退職のお知らせ」
と掲示されているので、診察室に入ってくる患者さんたちは、
「先生、退職って、開業されるんですか?まさか、引退じゃないですよね?」
「開業じゃないんです。転勤なんです。」
「どこの病院ですか?」
「〇〇区にある病院です。」
「ちょっと、遠いですね~。」
「でしょう? でも、この病院から10㎞そこそこですよ。」
「えー、この近くで開業してくれるなら先生についていくのに。」
たいてい、こんな感じです。
「大丈夫。ちゃんと、次の担当の先生に申し送っておきますから安心してください。」
妊婦さんの性格をある程度考えたうえで、それぞれの先生にお願いしていきます。
うちの病院でお産するつもりの妊婦さんがボクのせいで、
わざわざ家から遠い病院に移ってお産をする必要は全くありません。
ボクがいなくなったくらいで突然レベルダウンするようなものではありません。
うちの産科は、もちろん外来も含めて、「最高のチーム」です。
それに、同じフロアの中に、天下無敵のNICUもあります。
引き続き安心して健診を続けてもらえることでしょう。
それに、後任の部長がまたまたいい感じです。
温厚で、冷静で、優秀です。
きっと、もっと素晴らしいチームが出来上がることでしょう。
こんどは病院の外から、この病院の活躍を見ることができるかと思うと、
それはそれで、わくわくするものです。
言葉の上では、単なる「退職」ですが、
ボク自身が産婦人科医としてさらなるステップを上がっていくために環境が変わることでもあり、
自分を今まで助けてくれたチームが、今度はあらたなリーダーを得て、
更なる進化をしていくきっかけにもなることであるとも思います。
先週、大学の教授のアポイントを取って、今回の異動について挨拶に行きました。
ほんの数分間でしたが最後に、
「次の病院に行っても、頑張ります!」
と力を込めて挨拶したら、
「そんなに頑張らなくてもいいよ。」
と教授から言われました。
肩の力を少しは抜いて、これからも頑張ります。
安心な旅行 [産婦人科医]
この時期に外来で妊婦健診をしていると、
診察の最後によく質問されます。
「先生、あの・・、来週に旅行に行こうと思うのですが大丈夫そうですか?」
こないだもそう質問された方がいました。
妊娠中期で特に問題なかったその方に、
「大丈夫だと思いますよ。 で、どこに行くんですか?」
「沖縄なんですが・・・。」
「えー、ボクも来週行きますよ、沖縄。 で、沖縄のどこですか?」
「石垣島なんです。」
「わはは。 偶然。 ボクも石垣島です。 で、ホテルは?」
「〇〇ホテルです。」
「おんなじホテルですよ。 わはは。」
笑うしかありません。
この方は、ボクが着いた次の日に到着予定でした。
「先生が同じホテルにおられるなんて、めちゃめちゃ安心です。」
「ほんと。 なんかあったら一緒に病院に行きましょう。」
石垣島には、県立八重山病院という病院があります。
ほんとに何かあったら、見学がてらついていこうかと思いました。
結局、ボクが滞在中特に問題なく過ごされていたようです。
今年の夏休みは、ボクにとって完全にフリーな気分にはなれなかったかもしませんが、
ひとりの妊婦さんが安心して旅行できたのかもしれないと思うことにしました。
石垣島に滞在中、息子たちと2回も釣りに行き、
夜は居酒屋さんに持ち込んで、たらふくおいしい料理を食べました。
泡盛もつい飲みすぎました。
楽しい夏休みを過ごすことができました。
今年も、スタッフのみなさん、ありがとうございました。
また、リフレッシュして頑張ります。
診察の最後によく質問されます。
「先生、あの・・、来週に旅行に行こうと思うのですが大丈夫そうですか?」
こないだもそう質問された方がいました。
妊娠中期で特に問題なかったその方に、
「大丈夫だと思いますよ。 で、どこに行くんですか?」
「沖縄なんですが・・・。」
「えー、ボクも来週行きますよ、沖縄。 で、沖縄のどこですか?」
「石垣島なんです。」
「わはは。 偶然。 ボクも石垣島です。 で、ホテルは?」
「〇〇ホテルです。」
「おんなじホテルですよ。 わはは。」
笑うしかありません。
この方は、ボクが着いた次の日に到着予定でした。
「先生が同じホテルにおられるなんて、めちゃめちゃ安心です。」
「ほんと。 なんかあったら一緒に病院に行きましょう。」
石垣島には、県立八重山病院という病院があります。
ほんとに何かあったら、見学がてらついていこうかと思いました。
結局、ボクが滞在中特に問題なく過ごされていたようです。
今年の夏休みは、ボクにとって完全にフリーな気分にはなれなかったかもしませんが、
ひとりの妊婦さんが安心して旅行できたのかもしれないと思うことにしました。
石垣島に滞在中、息子たちと2回も釣りに行き、
夜は居酒屋さんに持ち込んで、たらふくおいしい料理を食べました。
泡盛もつい飲みすぎました。
楽しい夏休みを過ごすことができました。
今年も、スタッフのみなさん、ありがとうございました。
また、リフレッシュして頑張ります。
りっぱなお父さん [妊娠]
先日、ひとりの患者さんが受診されました。
診察待ちをしている方の名前は、診察室にいて電子カルテの一覧で判るのですが、
ボクはこの方の名前を見た瞬間に思い出していました。
この方のことは、かつてこのブログで書いたものの、
公開することができず、ずっと「下書き」のままにしていました。
それは、2年前のことです。
その妊婦さんは救急搬送で紹介されてきました。
切迫早産でした。
しかも、妊娠22週0日で、双胎でした。
その妊婦さんが入院中している病院の部長先生からじきじきに相談の電話があり、
数日前から子宮口が開いてきており、何とか押さえ込もうと治療しているけれど、
感染と陣痛が始まってすでに厳しい状況とのことです。
「もう、どんどん陣痛が強くなって、今にも生まれそうです。」
「厳しいですね。 NICUは受け入れ大丈夫です。 すぐに送ってください。」
小児科にも連絡し、バタバタと準備が始まりました。
救急車で搬送された、妊婦さんは陣痛でかなり痛がっています。
ご主人も付き添われ、ずっと奥さんの手を握っています。
診察すると、胎胞が膣の中に出てきており、赤ちゃんの頭はすでに子宮口の外側まで下がって来ています。
子宮収縮抑制剤を増量し、何とか時間稼ぎをする一方で、この妊婦さんとご主人にこの厳しい状況を説明しました。
「小児科医が全力で蘇生しますが、それで22週では多くの赤ちゃんは亡くなります。 生命を維持できたとしても、後遺症が残る可能性が高く、厳しいです。」
奥さんは、陣痛に耐えながら、不安で泣いています。
ご主人はすでに覚悟ができている様子でした。
「はい。 前の病院の先生から十分に説明を聞いています。 なんとか、この子たちをお願いします。」
そして、
「二人で頑張って育てていくんやぞっ! ええかっ?」
と、奥さんの手を握りながら、大きな声で、力強く励ましました。
泣きながら叫んだといってもいいくらいです。
奥さんは、痛みのせいか、うなづくだけでした。
そして、2時間ほどして子宮口が全開してしまいました。
もう抑えることはできません。
小児科に連絡し、子宮収縮抑制剤を止め、いよいよお産です。
破水した瞬間につるつると最初の赤ちゃんが生まれました。
臍帯を切って、ボクは小児科の先生に赤ちゃんを預けました。
待ち構えていた小児科の先生の蘇生処置は、早い早い。
ものの数秒で気管挿管がおわり、あっという間にNICUへ連れて行きました。
そして、もうひとりの赤ちゃんも同じように生まれ、
小児科の先生があっという間にNICUへ連れて行きました。
赤ちゃんたちは、当初、ボクたちがイメージしていたい以上に調子がよく、なんとかすこしでも後遺症がないよう祈るばかりでした。
そして、お母さんとお父さんは二人で毎日、何回もNICUに面会に行かれました。
いつも、ご主人が、ふらふらしている奥さんを支えるように寄り添っておられたのが印象的でした。
「赤ちゃんたち、頑張って!」
ボクは祈りました。
お母さんもお父さん(ご主人)も同じ気持ちだったと思います。
ところが、3日目になって、
順調だった赤ちゃんの状態は二人ともほぼ同時に急変し、
あっという間に亡くなってしまいました。
小児科の先生たちも全ての精力を注いでくれましたが。
しかし、もともと小さな赤ちゃんです。
小さすぎました。
赤ちゃんたちが亡くなってすこしして、ボクはお母さんとお父さんに会いに部屋を訪れました。
二人とも、赤ちゃんのことを心配して、
生まれてからずっと、休まる間もなく、くたくたに疲れておられました。
ボクは、亡くなった赤ちゃんたちに手を合わせ、お別れをさせてもらっていました。
「先生・・・。」
「はい。」
ご主人が言葉をひとつひとつ選ぶように話されました。
「・・・この病院に運ばれてきて、すぐにお産になり、この子を取り上げてくれました。」
「・・・小児科の先生にも頑張っていただき、感謝しています。」
そして、
「・・・ほんの3日間だけでしたが、この子たちに人生を授けてくれて、ありがとうございました。」
「・・・その間、私たちは家族でいられました・・・」
最後の方は、言葉になりません。
ボクも涙がとまりませんでした。
「そうですね。 本当に、立派なお父さんとお母さんでしたよ。」
そういって、頭を下げるのが精いっぱいでした。
この方はもともとハイリスクな妊婦であったとはいえ、あまりにも突然の早産です。
この悲しいお産を受け入れることは難しいと思います。
それなのに、このお父さんは、奥さんを支え、短い人生であった我が子たちに代わって、ボクにありがとうと言ってくれました。
短い命の赤ちゃんでしたが、この子たちは、このお父さんの子で幸せだったに違いないと感じました。
そして、もし元気で生まれてきてくれていたのなら、もっともっと幸せだったと思うと、
産婦人科医として、人間として、父として、ボクは残念でなりませんでした。
悲しいお産でしたが、ボクは、最高の父親の姿を見ました。
そして、それゆえに、残酷ささえ感じました。
2年の歳月が経ち、
このたび、
2回目の妊娠でうちの病院に来られました。
最初は本人さんが一人で診察室に入ってこられました。
「こんにちは。お久しぶりですね。妊娠されましたか?」
ボクは、問診表を見ながら、聞きました。
「はい。 先生、覚えておられますか?」
「もちろん。名前を見た瞬間に判りましたよ。」
電子カルテの画面をさしながら言いました。
診察が終わり、妊娠初期で、順調な様子です。
「今日、旦那さんは?」
「待合室で待っています。」
2年ぶりに会ったご主人は、あのときと同じように、
優しそうな「お父さん」に見えました。
不安そうな面持ちで診察室に入ってこられましたが、
ボクの顔を見た瞬間に、
ホッとしたような、しかし、今にも泣き出しそうな、
表現するのが難しい表情でした。
現在の妊娠が順調であること、
前回の妊娠が大変であったこと、
そのうえで、今回の妊娠での見通しや注意すべき点をいくつか話しました。
「頑張って、行きましょう。」
「・・・はい。」
この、最高の「りっぱなお父さん」に再び会うことができ、
ボクは気が引き締まる思いを感じました。
そして、ボクは、あの言葉を思い出しました。
「全ての命には必ず、意味があります。
きっと、なにかを教えてくれます。」
2年前に亡くなった、赤ちゃんたちのご冥福を祈るとともに、
きっと、この新しい命が、
たくさんのことをボクに教えてくれることを確信しました。
診察待ちをしている方の名前は、診察室にいて電子カルテの一覧で判るのですが、
ボクはこの方の名前を見た瞬間に思い出していました。
この方のことは、かつてこのブログで書いたものの、
公開することができず、ずっと「下書き」のままにしていました。
それは、2年前のことです。
その妊婦さんは救急搬送で紹介されてきました。
切迫早産でした。
しかも、妊娠22週0日で、双胎でした。
その妊婦さんが入院中している病院の部長先生からじきじきに相談の電話があり、
数日前から子宮口が開いてきており、何とか押さえ込もうと治療しているけれど、
感染と陣痛が始まってすでに厳しい状況とのことです。
「もう、どんどん陣痛が強くなって、今にも生まれそうです。」
「厳しいですね。 NICUは受け入れ大丈夫です。 すぐに送ってください。」
小児科にも連絡し、バタバタと準備が始まりました。
救急車で搬送された、妊婦さんは陣痛でかなり痛がっています。
ご主人も付き添われ、ずっと奥さんの手を握っています。
診察すると、胎胞が膣の中に出てきており、赤ちゃんの頭はすでに子宮口の外側まで下がって来ています。
子宮収縮抑制剤を増量し、何とか時間稼ぎをする一方で、この妊婦さんとご主人にこの厳しい状況を説明しました。
「小児科医が全力で蘇生しますが、それで22週では多くの赤ちゃんは亡くなります。 生命を維持できたとしても、後遺症が残る可能性が高く、厳しいです。」
奥さんは、陣痛に耐えながら、不安で泣いています。
ご主人はすでに覚悟ができている様子でした。
「はい。 前の病院の先生から十分に説明を聞いています。 なんとか、この子たちをお願いします。」
そして、
「二人で頑張って育てていくんやぞっ! ええかっ?」
と、奥さんの手を握りながら、大きな声で、力強く励ましました。
泣きながら叫んだといってもいいくらいです。
奥さんは、痛みのせいか、うなづくだけでした。
そして、2時間ほどして子宮口が全開してしまいました。
もう抑えることはできません。
小児科に連絡し、子宮収縮抑制剤を止め、いよいよお産です。
破水した瞬間につるつると最初の赤ちゃんが生まれました。
臍帯を切って、ボクは小児科の先生に赤ちゃんを預けました。
待ち構えていた小児科の先生の蘇生処置は、早い早い。
ものの数秒で気管挿管がおわり、あっという間にNICUへ連れて行きました。
そして、もうひとりの赤ちゃんも同じように生まれ、
小児科の先生があっという間にNICUへ連れて行きました。
赤ちゃんたちは、当初、ボクたちがイメージしていたい以上に調子がよく、なんとかすこしでも後遺症がないよう祈るばかりでした。
そして、お母さんとお父さんは二人で毎日、何回もNICUに面会に行かれました。
いつも、ご主人が、ふらふらしている奥さんを支えるように寄り添っておられたのが印象的でした。
「赤ちゃんたち、頑張って!」
ボクは祈りました。
お母さんもお父さん(ご主人)も同じ気持ちだったと思います。
ところが、3日目になって、
順調だった赤ちゃんの状態は二人ともほぼ同時に急変し、
あっという間に亡くなってしまいました。
小児科の先生たちも全ての精力を注いでくれましたが。
しかし、もともと小さな赤ちゃんです。
小さすぎました。
赤ちゃんたちが亡くなってすこしして、ボクはお母さんとお父さんに会いに部屋を訪れました。
二人とも、赤ちゃんのことを心配して、
生まれてからずっと、休まる間もなく、くたくたに疲れておられました。
ボクは、亡くなった赤ちゃんたちに手を合わせ、お別れをさせてもらっていました。
「先生・・・。」
「はい。」
ご主人が言葉をひとつひとつ選ぶように話されました。
「・・・この病院に運ばれてきて、すぐにお産になり、この子を取り上げてくれました。」
「・・・小児科の先生にも頑張っていただき、感謝しています。」
そして、
「・・・ほんの3日間だけでしたが、この子たちに人生を授けてくれて、ありがとうございました。」
「・・・その間、私たちは家族でいられました・・・」
最後の方は、言葉になりません。
ボクも涙がとまりませんでした。
「そうですね。 本当に、立派なお父さんとお母さんでしたよ。」
そういって、頭を下げるのが精いっぱいでした。
この方はもともとハイリスクな妊婦であったとはいえ、あまりにも突然の早産です。
この悲しいお産を受け入れることは難しいと思います。
それなのに、このお父さんは、奥さんを支え、短い人生であった我が子たちに代わって、ボクにありがとうと言ってくれました。
短い命の赤ちゃんでしたが、この子たちは、このお父さんの子で幸せだったに違いないと感じました。
そして、もし元気で生まれてきてくれていたのなら、もっともっと幸せだったと思うと、
産婦人科医として、人間として、父として、ボクは残念でなりませんでした。
悲しいお産でしたが、ボクは、最高の父親の姿を見ました。
そして、それゆえに、残酷ささえ感じました。
2年の歳月が経ち、
このたび、
2回目の妊娠でうちの病院に来られました。
最初は本人さんが一人で診察室に入ってこられました。
「こんにちは。お久しぶりですね。妊娠されましたか?」
ボクは、問診表を見ながら、聞きました。
「はい。 先生、覚えておられますか?」
「もちろん。名前を見た瞬間に判りましたよ。」
電子カルテの画面をさしながら言いました。
診察が終わり、妊娠初期で、順調な様子です。
「今日、旦那さんは?」
「待合室で待っています。」
2年ぶりに会ったご主人は、あのときと同じように、
優しそうな「お父さん」に見えました。
不安そうな面持ちで診察室に入ってこられましたが、
ボクの顔を見た瞬間に、
ホッとしたような、しかし、今にも泣き出しそうな、
表現するのが難しい表情でした。
現在の妊娠が順調であること、
前回の妊娠が大変であったこと、
そのうえで、今回の妊娠での見通しや注意すべき点をいくつか話しました。
「頑張って、行きましょう。」
「・・・はい。」
この、最高の「りっぱなお父さん」に再び会うことができ、
ボクは気が引き締まる思いを感じました。
そして、ボクは、あの言葉を思い出しました。
「全ての命には必ず、意味があります。
きっと、なにかを教えてくれます。」
2年前に亡くなった、赤ちゃんたちのご冥福を祈るとともに、
きっと、この新しい命が、
たくさんのことをボクに教えてくれることを確信しました。
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